対流するわたしと文学
サウナイキタイ アドベントカレンダー 13日目の記事です。
水曜日の儀式
7cmのヒールは、武装だ。
誰かに強要されているわけでもないし、むしろオフィスに篭りきりの事務職にとっては、わざわざ7cmヒールのパンプスを履く必要なんてどこにもない。それどころか、ありがたいことに服装に関してはかなりゆるい会社で、スニーカーでの出社も認められている。
それでも週に一度はかならず、7cmのヒールが履きたくなる。
そしてそれは大抵、毎週水曜日にやってくる。
マスクのなかで誰にも見えない口紅を塗って、大きなピアスをつけて、（何も入れていなくても）重い革のカバンを持つ。そして7cmのヒールを履く。
日常に大して不満はないし、誰かに不当に虐げられたり、馬鹿にされたり、悔しい思いをしたわけでもないけど、ただ週に一度だけ、そんなステレオタイプな「強さ」が欲しくなる。
7cmの背伸びをして見える景色は少しだけ視界が広がったようで清々しいし、満員電車でも呼吸がしやすい。何より、ピンヒールがグラつかないよう、ふくらはぎのひらめ筋と腹筋にギュッと力を入れて、背すじをしゃんと伸ばして立つだけで、気持ちがダレてしまいがちな水曜日を強い気持ちで過ごせるような気がするのだ。
誰かから見たらとてもくだらない、ばかばかしいことかもしれないし、逆に「よくあること」なのかもしれないけど、とにかく週に一度、そして大抵水曜日のわたしに、それはどうしても必要な儀式なのだった。
そんな日は決まって、「重いカバン」とは別にもうひとつ、布のトートバッグを持つことになる。
下着、寝間着のような着替え、ペラペラの薄いサンダル、それにお風呂セット。
武装を解除するのに必要なのは、仕事終わりの銭湯だ。
「なんか今日、荷物多いっすね」
そんな面倒な声かけを適当に受け流す術はもう持っている。
仕事終わりにちょっと、といえば相手は勝手に妄想してくれる。
泊まりの用事を想像した人間はわざわざ野暮なことは聞いてこないし、ジムですか？ と聞かれれば、まあそんな感じです、とぼかして流すまで。
とにかくこの儀式は最初から最後までわたしだけのものであって、誰にも邪魔されてはならない。
9時間の労働を終えて、自宅最寄り駅から徒歩数分。もうその頃には脚も肩も脳みそもくたくたのパンパンになっている。見慣れたのれんをくぐり、靴箱は決まってしあわせの44番（4と4で、しあわせ）。7cmの武装を解除して、がごん、と靴箱に放り込む。ストッキングごしの足裏に、カーペットの感触が気持ちいい。
番台に「サウナで」と声をかけて、入浴券とサウナ代の200円、靴箱の木札を渡す。貸し切りだよお、という声に、やった、と小声で答えてにんまり。
服を脱いでいくだけでも、解放感に心が躍る。もしかしたら水曜日は、この「武装解除」の気持ち良さをあじわうためにあるのかもしれない、なんて。はやる気持ちをおさえて、足の指まで一本ずつ、丁寧に洗っていく。43度のあつ湯、まずはかけ湯して、そっと湯に浸かる、瞬間、ほぐれる身体……！ ウウ、なのか、グウ、なのか、声にならない声が、喉の奥で小さく漏れる。
だんだんと身体が湯の温度に慣れて、目をつむれば湯に溶けて一体化してしまいそうで、少し怖い。うっすらと目をあけて、浴室を眺める。
白いタイル、明るく賑わう浴室。そして裸の人間、人間、人間、人間！
ちいさな子どもから、中くらいの子ども、大人、もっと大人、そしておばあさん。からだの大きさも様々。
ここには実に様々な、丸裸の人間たちが存在していて、同じく丸裸であつ湯に沈んでいるわたしも、周りの丸裸の人間たちも、誰一人として「何者でもない」状態で存在している。そしてそれが、それこそが、心地よくもあるのだった。
服を着て、靴を履いて、髪を結って、化粧をして、社会で「何か」になりながら生きている自分が、遠い平行世界に存在する別の自分のようにも感じる。「こちら側」の私から見るとそれはとてもばかばかしくて、何もない、何者でもない今の自分がずっとホンモノで、ピュアで、透明で、気持ちのいい存在であるような気がしてくる。
でも残念なことに、どちらの自分も現実で、たぶん一生捨てられないんだよね。
そんなことを考えつつじっくり身体を温めたら、水風呂の水をかぶって、身体を拭いてサウナ室へ。いつものルーティンである。
◆１セット目 ゆく河の流れは絶えずして
2段ある座面のうち、1段目、入り口の扉に最も近い席。そこが私の定位置だ。
先人たちの汗が深く染み込んだ古い木の壁、座面はL字に伸び、ちょうどわたしの目の前には石の積まれたストーブが鎮座する。数十分置きに天井がパッと明るくなり、石に向かって水が噴射される仕組みで、そのタイミングにぶち当たるともう何分も入ってはいられない。目に見えそうなくらい熱い蒸気があがるその瞬間が好きだけど、今日も立ち会えるかどうか。
ただ、それに立ち会えずとも、ここは充分に熱い。背中にどっしりとした熱を感じながら、目に見えるわけではないその熱の対流を、じっと想像する。
石のまわりの、温められた空気が膨張する。密度が低くなり、軽くなった空気は天井へ上昇する、そしてサウナ室を巡り、熱くなった壁や座面からの熱とともにわたしを温める。やがて行き場を失った熱は、排気口からでてゆき、新しい空気と入れ替わる。
膨張、上昇、巡って、入れ替わる。膨張、上昇、巡って、入れ替わる。
熱はどんなかたちをしているんだろう。熱に色があるとしたら、どんなだろう。わたしの中の「何か」……そう、自分の内側の「社会的自分」だけが、すうと肩のあたりから抜け出して、その「熱のかたまり」と一体化し、サウナ室をめぐって、やがて新しい空気と入れ替わって消えていくのを想像する。熱は巡る。わたしも巡る。時間が前にしか進まないのと同じように、同じ存在としてはもう二度となく、絶えず巡り続ける。
ああ、これ、この感じ。なんだっけ、なんだっけな……ああ、そうだ。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮(うか)ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
『方丈記』の冒頭部分である。
サウナ室を巡り、絶えず入れ替わってゆく熱に実態はなく、絶えず巡り、流れ続ける。
そしてその対流のなかに、小さくわたしも存在している。同じ速さではないけれど、決して後ろには戻れない時間のなかで。対流し排気口から出てゆく熱のように、川を流れる水のように、そしてそこに浮かんでは消える泡のように……わたしも、ずっと同じまま「そこにある」わけではなく……つまり、老いて、いつか死ぬ。
人からの評価、比較、視線、SNSの反応。社会的地位……は、わたしはそんなに必要としてはいないけど、お金はあるに越したことはない。人に好かれたいし、仕事は頑張りたい。何のために？ 自分が満たされたいから？
毎週水曜日には、ヒールの靴を履く。何のために？ わたしにとってそれは何？ 何のための武装なの？ 本当に自分だけのため？ 他人から「そう」見られたいから？ 本当にそれは大切なの？ 無駄じゃないの？
考えれば考えるほど、俗っぽい思考の自分が嫌になる。でも、そんな自分も現実で、捨てられない自分、「社会的自分」で。
壁の12分計の針は、なめらかに盤面をすべっていく。ぐしゃぐしゃの思考もまた、浮かんでは消え、浮かんでは消え……わたしのなかを対流し、やがてどこかに消えていく。
いつの間にか、汗か、水蒸気かわからないものがびっしりと、膜のように身体をおおっていた。12分計はもう一周しようとしているらしい。サウナ室を出て汗を流し、息を止めて水風呂に浸かる。肩まで浸かって、ゆっくりと息を吐く。冬の水風呂は冷たくて、そう長く入ってはいられない。ざぶ、と水風呂から外に出て、しばし休憩。
カランの前に椅子を出して座り、心拍数が落ち着くのを待つ。トン、トン、トン、と体内で響く音に、浴室の様々な音がまじりあっていく。
プラスチックの桶が床に置かれる音、誰かのかけ湯、湯舟のバイブラの音、シャワーの音、常連同士があいさつする声。そうだ、ここにもまた別の「社会」があって、ここでもまた「何者かである」ひともいるんだな……それが良いとも、悪いともわからないまま、思考は判断力を失い、スルスルとほどけて、排水溝に吸い込まれていく。トン、トン、トン、トン。トン、トン、トン、トン。
◆2セット目 方丈の庵
相変わらず、サウナ室は貸し切りだ。代謝が良くなっているせいか、1セット目よりかなり早く、汗がにじんでくる。
さっきまで頭の中をぐしゃぐしゃにしていたものたちは、今はもう見当たらない。そこは凪いだ水面のように穏やかで、何かが解決したわけでも、答えがでたわけでもないけど、ただ何かが通り過ぎて行ったような静けさが残る。
金持ちであっても、貧乏であっても、結婚しても、独身でも、都心に住んでも、田舎に住んでも……なにかと心労がついて回るこの世の中で、どうしたら真に心の安寧が得られるのだろう。人間に生まれた以上、かなわないことなのだろうか。
鴨長明は「無常観」とともに、そんな「穏やかに生きていく難しさ」も感じていた。そして50歳で出家したのち、山の中に建てた四畳半程の質素な住まい「方丈の庵(いおり)」に移り、そこで『方丈記』を執筆したそうだ。
教科書に載っていたアレ、というだけの認識でいた『方丈記』だったが、今ならなんとなくわかりながら……あるいは、わかりたいと思いながら、読み進められるに違いない。
仕事は辞めたくないし、服も捨てられない、SNSもやめられない。いろんな執着にまみれて生きている。相変わらず水曜日は自分なりの「強そうなふり」をするだろうし、そのたびにこうして銭湯でいろんなものを吐き出して、巡らせることでバランスをとっていく。きっと、今いるこの四畳半よりすこし小さい木の箱が、わたしにとっての「方丈の庵」なのだ。なんて言ったら、調子が良すぎるだろうか。
無理やりすっきりしたところで、ストーブの上がぱっと明るくなり、ストーブに勢いよく水が噴射される。ああもう、これが来るともうダメだ。熱い蒸気が上から押し寄せる。「アツい！」が大きな立体の文字になって、脳内でドンドコと踊りだした。この調子だ。
◆帰路にて
夏なら水風呂でシメるところだが、この時期はあつ湯でシメるのが正解だ。まだ湯気がでそうなほどに火照る身体に、夜風がひんやりと気持ちいい。
7cmのヒールから履き替えたサンダルが、ペッタ、ペッタと情けない音を立てる。寝間着に似合わない革のカバンに、服、そして靴。両肩に感じるのは「社会的自分」の面倒な重みだ。そんな面倒くささが、ばかばかしいけど愛しくもあって、捨てられない。そしてまた来週ここを訪れる、その繰り返し。でも今のわたしには多分、それくらいがちょうどいい。
※一部実際の経験に基づく、架空のエッセイです。
▼引用・参考文献
鴨長明 著・梁瀬一雄 訳注『方丈記 現代語訳付き』／角川ソフィア文庫／2010年
▼おまけ
なぜか落葉樹のサイクルが思い出されました。「最後の一葉」のような物寂しさと春の新緑の力強さと🍂🌱
かっこよすぎます。シビれます!
読んでて感動しました！素敵な時間をありがとうございます！
方丈の庵の手書きの説明が良かったです。是非37巻読破してからサウナしてみたいと思いました。
なんか分からないけど素晴らしい
お見事
ステキなコラムを39(サンキュー)です。 何者でもない僕らが、必死に何者かになりすまそうとして生きていくためには、今の時代サウナが大きな救いかもしれません。読んでととのう文章、ありがとうございます。
やばい…こういうの好き…
素敵な価値観をお持ちだと感じました 😊
素敵な文章に引き込まれました。サ活も拝見させていただきました。私の父も佐賀出身。近いうちにらかんの湯に行こうかな。
情景が思い浮かぶ素敵な文章でした！
素晴らしい文才。引き込まれました。
いいものを読ませていただきました（感謝）。方丈記が全37巻だなんて考えたこともなかった！
ステキ、銭湯サウナなのが味わい深い、ありがとうございます🙏
こんな短編集読みたい。毎日読んでるけど
読んだ〜、体に染み入るよい文章！
名文ですね！
武装したくなる日があり、それを解放しゆるゆると自分へ戻る…とても素敵な文章でした。読んで今日も頑張っていきます。素晴らしい記事ありがとうございました！
冒頭の気怠さはらむ婀娜っぽい大人が、千七百倍に被われてゆくと、纏っていたものが昇華しはじめ 内からくどい程のクエスチョンが滾々と浮かび流れる その様子は着飾る知を養った大人が無垢で無知な少女のころに還っているよう 熱を拭い去る水平線が逢瀬となり、時間は戻らないとありましたが、しっかり時を遡って二人 見つめ直していたと受け取りました。 なので？初トントゥしてみました
読んでファンになりました。武装はとても共感で…私も仕事辛いときとか元気出ない日は一番高いヒールで会社行ってました。さらにサウナで解除までが1セットというのが目からうろこでした。ストイックな緩急がかっこいいです。