2020.01.11 登録
[ 群馬県 ]
「愛こそが」
あるとき、ある若者が、ある言葉を叫んだ。
「群馬に毎日行きたくなるようなサウナを作りたい」
似た言葉を叫ぶ人はたくさんいるけれど、彼の言葉には熱の胎動を感じた。バカみたいだけれど、僕はそう感じ、見守り、応援していた。
世界を変えるのは、いつだって、バカなのだ。バカになれることがあるならば、それはもはや幸せと呼んだっていい。
そうやって一人の若者が作り上げた「毎日サウナ」は、ここにしかない衝撃を与えてくれる。
サウナ室のベンチの深さ、2種類の水風呂、ととのいスペースの寝転びスペース。
それらの一つ一つに愛があった。あるいはそれは偏執的な、バカな愛かもしれない。けれど、まぎれもなく、あたたかな愛だった。オーナーのねっぱやしさんの微笑みの残像すら見えた気がした。
新しくできる施設はたくさんあって、最初は追いかけていても、だんだんと把握できなくなってくる。
あるいは高級おひとりサウナが多くできていく中で、いくぶん、寂しさもあったかもしれない。
そんな中、産声を上げたパブリックな施設だ。
前橋までの往復代を考えると、近場の高級サウナに入れてしまえる。
けれど(そう、本当に、けれど!)僕はまた毎日サウナに行くだろう。
また、ねっぱやしさんに会いにいくだろう。
サウナ室だけが僕らをあたためるのではない。
愛こそが本当の意味で僕たちをあたためるからだ。
なんだか、ラブレターみたいになってしまったので
そろそろ、筆を置こう。
最後にあえて、気になった点を書いてみる。
サウナ室のガラスからさす浴場の明かりのおかげで
せっかくの薪の明かりというコンテンツが霞んでるような気がするのでした。
では、また毎日サウナで。
[ 神奈川県 ]
平日夕 人出:中
「ささやかな想像さえできれば」
3月7日という日は毎年、僕たちの胸を熱くさせる。
単なる語呂合わせでしかないけれど
それでもやっぱり、なんだかうれしいものだ。
満天の湯の塩スチームサウナ内に書いてある「正しい塩サウナの入り方」を読んでいると、福島のまねきの湯を思い出した。思えば、あそこで塩サウナの入り方を学んだのだった。
「塩はこすらずに、体にまぶして、とけるのを待ちましょう。塩が溶けて低濃度の塩水になることに意味があって、塩そのものが何かをしてくれるわけではないのです。ゴシゴシとこすっても意味はありません」という趣旨の説明書だった。
塩スチームサウナに子連れのお父さんが入ってきた。
子どもはまだまだ小さくて、サウナに入る父親に「パパ、帰ってきてよー」とつぶやく。
父親は「すぐ出るからね」と笑う。
そんな彼らをじろりと見る人がいた。
いろんな場所に、いろんな人がいて、いろんな思いを抱えている。
ささやかな想像さえできれば
世界はいくぶん生きやすくなるように思えた。
父親は体に塩をゴシゴシとこすってから、塩がとけるのを待つこともなく、すぐに子どものもとに帰っていった。
サウナ室は静かになった。
けれど、それは、けれど…
僕の言葉にしたい思いはスチームサウナの中に迷い込んで、霧の中から見つけることはとても難しかった。
僕にできたことは静かになったサウナ室をあとにすることだけだった。
[ 富山県 ]
「もしも、雨が降ったとしても」
平日昼 人出無
2021年がもうすぐ終わろうとしている。
サウナが多くの人の日常になってから、もう何年だろう?
僕にとっての2021年は当然ながら、2020年でもないし、2011年でもダメな年となった。
そして、長野のThe saunaに感銘を受け、感動した若者たちが
富山の立山に驚くべきサウナを築き上げた年でもある。
ここが与えてくれる時間はまぎれもなく、ここでしか得られない体験となっている。
サウナ室の中の一番高い座席「大汝山(おおなんじやま)」は首を曲げなければいけないほどに天井に近い。
ロウリュをすれば、あっという間に熱が降り注いでくるのだ。
ちゃんと低い山の名前を与えられた熱すぎない座席もあるが
高い山に登山した者だけが見られる景色がサウナ室の窓から広がっている。
ととのいイスに座ると、立山連峰と田園風景が望める。
遠くに雨雲が見え、「雨の始まりと終わり」の境目が確認できる。
だんだんと雨雲は近づいてきていた。
けれど、大丈夫。この雨雲が僕らの真上を通るころ、僕はサウナの中にいるのだから。
もしも、雨が降ったとしても
雨を喜べる僕らでいられるのなら
それはきっと美しい出来事の一つなのだ。
立山連峰を望むイスの上でそんなことを考えていると、小さな雪が僕の胸元に落ちてきた。
[ 岐阜県 ]
平日:夜 人出:中
「飛騨が誇る聖地と日常までの距離」
東京から車に乗る。6〜7時間ぐらいたったころ、僕は岐阜の飛騨が誇る聖地と呼ぶにふさわしい水風呂に浮かんでいた。
サウナは2段。L字。テレビでは水曜日のダウンタウン。
水風呂はシャキッとした味わいで
肌の上をなぞっていく。
露天風呂のある外気浴ゾーンに大きな岩。寝転んでいい。日中の陽光を溜め込んでいた岩はほんの少しあたたかい。
夜空に僕の体から立ち上る蒸気が吸い込まれていく。
もしもそんなふうに、と僕は思う。忘れたいこと、手放したいこと、持ちたくなかったことを夜空が吸い込んでくれたなら。
でも、僕らは自分で持たなければいけない。良くも悪くも僕らの思い出は僕らだけのものなのだ。
足取りが軽くなることもあれば、足を引きずらせることもある。
どこでもドアでたどり着いたエベレストの頂上はきっと味気ないものだろう。
一歩一歩、進んでいこう。
日常までの距離は6〜7時間だ。
平日:昼 人出:無
「ダッダッダッ、ザブザブ、ジャボン」
福島の誇る名勝・猪苗代湖を水風呂にできる。
これを聞いたときは羨望と、憧憬の間で揺れた。
夏の猪苗代湖には毎年訪れてはテントを張って、真夜中、星空を見上げながら、友人たちとお酒を飲んでいるのだけれど
今年はタイミングが合わず、夏を始めることができていなかった。
高速を下りて、約10分ほどで目的地のみなとやさんに到着。
湖畔に立つホテルの外観は長くこの地で営業を重ねてきてくれた趣を感じさせる。
チェックインを済ませ、湖畔に出ると
熱々にセッティングされたテントサウナが設営されている。
ほんの少しだけ、設営を手伝う。そう、ほんの少しだけ。
あとのことはどう書けばよいだろうか。
誰かの言っていた「蒸され冷やされ風になる」を十全に堪能できた。
時に140度、時に90度になるテントサウナ。
好きなだけしてよいセルフロウリュ。
テントサウナの窓から見える猪苗代湖と青い空。
テントサウナ内にまで聴こえる波の音。
しっかりと蒸され、テントを出れば、そう、目の前には湖がある。
信じられないかもしれませんが、飛び込んでいいんです。
ダッダッダッ、ジャブジャブ、ジャボン。
その音のあとには何も聞こえなくなった。
目の前には揺れ動く青い湖。
体を浮かべると夏とまごうことなき太陽と青い空。
自分の心臓の音すら聞こえなかった。
波が揺れる音はさながら地球の鼓動で、僕は地球と溶け合っていた。
サウナと詩はよく合う。そう思う。
もしも僕が詩人だったなら、どんなタイトルの詩を書けるだろう?
そうだな、例えば…
[ 埼玉県 ]
週末昼 人出中
「きっと、僕らがここにいて」
飯能駅からバスで向かう。
心なしか、以前来たときよりもメッツァ行きのバスに乗る人が多い。
みんな、アウトドアサウナに向かうのかな? サウナTシャツを着てきたことが誇らしさと照れくささの間で揺れる。
メッツァに着いて、湖を背中に左のレストラン方向よりさらに奥に進むと、アセマサウナとテントサウナのアウトドアサウナたちが僕らを待っていてくれている。
アセマサウナはさすがの馬力で、しっかりと蒸してくれる。
なにより、サウナ中に窓から望む湖の水面に揺れる陽光は忘れがたい。
テントサウナは両方同じものだが、70〜90度の中で揺れ動く温度も愛らしいし、薪を入れる作業が楽しめる。
ロウリュをしたあとに立ち上がると、とんでもない熱波を感じられる。
ハッカ油入りの水風呂に飛び込み、湖を全身で受け止めながら休む外気浴。
今はもう9月だけれど、真夏よろしく太陽が照っていた。
去年も今年も、きっと望むような夏にはできなかった人が多いだろう。
けれど、あなたがそこにいる。それだけであたたまるなにかがあるはずだ。きっと、僕らがここにいて、それで照らされるものもあるはずだ。
9月のきっと最後になる夏の日の真っ青な空に飛行機雲が描かれていった。
[ 埼玉県 ]
平日昼 人出少
「僕らの詩を覚えているか」
サウナと詩はよく合う。
実際に本を持ち込むわけじゃないけれど
頭の中でかつて読んだ詩の一節を思い出したりすると
当時は気づけなかった角度なんかを見つけられたりする。
中原中也のこんな詩を思い出した。
浜辺を散歩しているときにボタンを拾ったけれど、それをどうしても捨てられなかった
みたいな詩だった。
もしかしたら、僕らはそういったボタンをサウナに置きにきているのかもしれない。
どうしても捨てられないものがあって、かといって、それを持ち続けていられるほど
現代はきっと甘くない。
民主主義の資本主義というのはつまり競争であり、出し抜き合いなのだから。
騙された方が負けで、転ばされたら負けなのだ。
でも、それは「暮らす」ことにおける側面だけだ。
僕らは「生きる」中で浜辺でボタンを拾うことだってある。
子どものころに公園や道端で綺麗な石を拾ったじゃないか。
雨が降っても、缶蹴りをやめなかったじゃないか。
夕焼けが僕らの影を僕らより大きいサイズに伸ばしていくのを見つめていたじゃないか。
それはまぎれもなく詩だったのだ。言葉ではない全身でうたう詩だったのだ。
僕らの詩を覚えているか。
とはいえ、ボタンだって無限に持てるわけじゃない。
ボタンホールを見つけてやらなければいけない。
サウナはそういったことに、とっておきの場所に思える。
そんなことを考えていると、デュアルタワーにオートロウリュの雨が降った。
歩いた距離 1km
[ 神奈川県 ]
平日昼 人出少
「雨はもう、やんでいた」
どうしても、はじめましてのサウナに行きたくなるときがある。
どこに何があるかわからないまま、フロアや浴室を散策し、パズルのピースを埋めていく感覚。
日常にいくぶん、くたびれているのかな?
異邦人でありたくなるときもある。
シャワーから出てくるのも源泉。
サウナも3段目は「寝転べ」といわんばかりの座面の広さ。
関東圏でも、数少ない「寝転んでよい」サウナだ。
水風呂も色素を抜いた黒湯というユニークさ。
外気浴場所も広く、空が抜けていた。
この日はたまたま雨だった。
むしろ、うれしい。
雨を全身に受けて、楽しめるのはサウナのあとぐらいなのだから。
くつろぎスペースは漫画も豊富でのんびりと寝転べる。「宇宙兄弟」を読んでみた。
屋上に出て、ハンモックに揺られていると、いろいろなことを思い出した。
追いかけたもの、持てなかったもの、捨てたかったもの、捨てられなかったもの、くっついてきてしまったもの、遠くに見えるもの、見落としてきたもの、なくしたくないもの。
雨はもう、やんでいた。
歩いた距離 6km
[ 福岡県 ]
平日:深夜 人出:無
「壺に落ちる水滴だけが返事をしてくれていた」
日帰り入浴が夜に締め切られ、あとは宿泊者のみの利用となる。
きっと本来はもっと賑わっているんだろうウェルビー福岡。
僕らは深夜のウェルビー福岡をほぼ貸し切りで利用させてもらうこととなった。
脱衣所で館内着を脱ぐ。
体を清め、3つのサウナを巡る。
高温サウナ、セルフロウリュサウナ、からふろ。
グルシンの水風呂からのサウナ内の水風呂に浮かぼうとするが、すぐに沈んでしまう。
サウナに入り、目をつぶる。
ストーンの焼ける音。自分の鼓動。
何かが剥がれ落ちる音が聞こえた気がした。
サウナ室内を見回す。もちろん、何も落ちてはいない。
水風呂に入り、休憩していると、また何かが剥がれ落ちる音が聞こえる。
「服は」と僕は思う。「さっき脱いだじゃないか。なのに、何が剥がれ落ちるっていうんだ?」
からふろでほうじ茶をロウリュし、目をつぶり、寝転ぶ。
水滴が壺に落ちる音の遠くで、何かが剥がれ落ちる音が耳に届く。
裸で畳に寝転び、蒸気を全身に浴びる。
竹原ピストル君の歌声を思い出した。
「確かにぼくはここにいるけれど」とピストル君は歌う。「確かなぼくはどこにいるんだろ」
蒸気が目の端に溜まり、水滴が頬を伝っていった。
「もしも、この水滴をロウリュにしたら」と僕は言う。「誰かをあたためることができるだろうか?」
壺に落ちる水滴だけが返事をしてくれていた。
水風呂に入り、浮かぶ。
沈むことなく、なぜだか、ずっと浮かんでいられた。
剥がれ落ちる音はもう聞こえない。
「確かなぼくは」と僕は口ずさむ。
歩いた距離 3.1km
[ 佐賀県 ]
平日:夕 人出:中
「咲いて、枯れて、バトンをつなぐ」
今年の夏を始めたかった。
それにはきっと、らかんの湯はぴったりに思えた。
向かう電車(武雄温泉はICカード非対応なので注意されたし)から見える田園に無人駅、鳥栖商業の球児たちの焦げた肌、こっそりと手を握り合うジャージー姿の高校生たち。
遠くの入道雲が彼らを見守っていた。
入館するとチームラボが出迎えてくれる。
ホテルへの入り口であるとともに、非日常への入り口でもあった。
別の世界へと連れていってもらえるトンネルのような廊下を歩くと「湯」ののれんが見えてくる。
今治タオルが使い放題とは、なんと贅沢な。
サウナ室は「漆黒」と表現したほうがよいかもしれない。暗闇ではなく「漆黒」だ。
入室してから数秒、何も見えない。ほんの少し差し込む外光により、ストーブだけが見えるが、座席はほぼ見えない。
あるのに誰も気づかない3段目に気づいたのは何セット目だったか。
ドアの開閉による一瞬の光だけが存在を教えてくれる。
「黒」の中に身を置く。女性側が「白」の中だとするなら、男性側はやはり「闇」ではなく「黒」だろう。
外気浴中、熱いほうじ茶をすすりながら、御船山の森を見つめる。たくさんの音が僕を包んでいた。森を通り抜ける風の音。虫たちの愛のささやき。
そこには「生」があった。けれど、足元には「死」があった。彼らはそれを繰り返していく。
春がきたら、芽を伸ばし
夏で大きく成長し
秋に落ち葉で土壌を豊かにし
冬は眠りにつく。
咲いて、枯れて、バトンをつなぐ。
それだけだったし、それだけで十分だった。
電車の中の景色を思い出す。
無人駅、球児、高校生たちのつながれる手。
あのころの僕もいたかもしれない。
彼ら(僕ら)に伝えてあげたいことがあった。
でも、きっと余計なお世話だ。
かわりに明日の僕に伝えておこう。
「いつだって」と思う。伝わればいいな。「今日は最後の日なのだ」
[ 東京都 ]
平日 夜 人出 中
「20分ごとに降る雨(オートロウリュ)」
リニューアル初日の夜。
脱衣所に新しい木の香りが漂っていた。
子どもが新しいおもちゃの封を切るような気持ちで
洞窟のような浴場にあるサウナ室のドアを開ける。
足元を照らすライト。狭いサ室にそびえるどでかいikiストーブ。
そして20分ごとに降る雨(オートロウリュ)。
去年から少しずつアップグレードを重ねていったCIOを
つぶさに見ていた身としては
不思議な感動を覚えた。
毎時00時、20分、40分というペース
20分ごとのロウリュだから
1セット目のタイミングさえ調整すれば、毎回ロウリュを受けられるのも
たまらなくうれしい。
いつまでも入っていたいそんなサウナ室になった。
ロウリュ可能の施設になったことで
アウフグースイベントなども打っていくのだとしたら・・・
そんな妄想をしながら、大塚の線路沿いを歩いて帰った。
山手線沿線で駅徒歩近くで
90分1000円で、オートロウリュがあって
基本的なアメニティーが揃っていて
持ち込みもOKで、漫画も読める施設は
きっと多くないはずだ。
僕らの日常にそっと寄り添ってくれるCIOの洞窟に
ぜひ、あなたも探検しにきてみてください。
歩いた距離 2.1km
[ 東京都 ]
平日 夜
人出 少
「その電車に僕は乗っていない」
巣鴨・サンフラワーに向かおうと乗った千代田線。
大手町で三田線に乗り換えれば、サンフラワーまではすぐだ。
けれど、なぜだか大手町に着いたときに僕は電車を降りなかった。
気づいたら湯島で下車していた。
湯島駅から徒歩30秒のカプセルランド湯島。
脱衣所のエアコンが不調らしい。
たしかに暑い。
けれど、サウナから出たあとは涼しく感じられる。
視座なのだ。結局のところ。
自分がどこにいるかで世界の見え方は変わるのだ。
もし、本当にそうなのだとしたら
生きることはもしかしたら、それほど難しくないかもしれない。けれど、暮らすことは難しい。そんなことをサウナ室の中で考えていると遠くで千代田線の電車の音が聞こえた。
その電車に僕は乗っていないのだ。
[ 東京都 ]
土曜 夕
人出 多
「僕らのみじかい永遠」
サウナ室工事前の1週間、ストーブ破壊覚悟で室温の限界に挑むという男気。
毎日通っていたぐらいだったけど
仕事や予定の兼ね合いで、よりによって、土曜にしか入りにいけなかった。
思えば、CIOのサウナ室にはいろんな思い出があった。
何度も思い出したくなるぐらい楽しい1日の終わり
絶対に思い出したくないタフな1日の終わり
思い出すことの難しい日常の1日の終わり
どんなときも変わらぬ熱さと冷たさで
そっと寄り添ってくれていた。
昨日の僕がサウナ室に入っていく。
今日の僕は水風呂に浮かびながら目を閉じる。
7月末には新しい思い出を積み重ねていける。
それはとてもすてきなことだ。
オートロウリュもあるだなんて、人気が加熱しすぎてしまうかもしれない。
いいことだけど、少しさみしいね。
水風呂に注ぎ落ちる水の音。
あのころはきっと僕らのみじかい永遠だったのだ。
誰かの詩のそんなフレーズを思い出した。
笑顔をこぼす僕も、涙を流す僕も、汗を流す僕も
それをただただ受け止めてくれていた君も
それはきっと、みじかい永遠だったのだ。
僕らのみじかい永遠は7月12日に終わる。
しかたのないことだ、永遠だっていつか終わるのだ。
そして、また新しい永遠が7月22日から始まる・・・といいな。
水風呂に流れる水は止まっていた。
外気浴に出ると、遠くから雲が近づいてきていた。
歩いた距離 2.1km
[ 東京都 ]
平日 夜
人出 中
「生きて帰りたかったら」
ピークタイム料金が加わり、結果として人出が減ったことで、ここの弱点が減ったように思う。
前はあまりにも混みすぎていたし、けたたましい煩雑な音にあふれていた。
サウナ室の中で耳にタオルを詰め込んだことすら懐かしく思える。
友人との打ち合わせの前に赤坂のサウナで合流した。
思えば彼はグルシンに飛び込んだことはなかったかもしれない。
運よく19時のアウフグースに入れた。
「いいかい」と僕は友人に言う。「とにかく下段にいるんだ」
生きて帰りたかったら、と心の中でつぶやいた。
立ち上る蒸気。迫りくる熱波。垂れ落ちる汗。
お互いなんとか完走できた。けれど、もう限界だ。
水を!水風呂を!
グルシン水風呂に飛び込み、そのあと14度水風呂に入る。
ここでしかない体験のひとつだ。体がスルスルとほどけていく。
さあ、このあとは焼き肉とビールが待っている。
[ 神奈川県 ]
平日 昼
人出 中
「あるいは名前が残らなくても」
浜川崎で71年間「朝日湯」という銭湯を続け、2021年3月に建て替え工事によるアップグレードにてグランドオープン。
結果として重箱の隅すらない、見事な施設に生まれ変わっている。
外気浴スペースにカランと桶があることの見事さよ。
関東一深い水風呂に飛び込んだときに
きっとサウナ王が関わった施設なのかもしれないと感じる。
ゆらっくすの水風呂の作りに似ていたかもしれない。
あるいは不感炭酸泉というギミックの見事さかもしれない。
外気浴スペースでまどろんでいると夢を見た。
夢の中では「ゆいる」はまだ「朝日湯」で僕は脱衣所で休んでいた。
もちろん、来たこともない。けれど、常連であろう人々が次々に番台さんの横を通り抜けていく。笑顔だ。みんな笑顔だった。入る人も、帰る人も。
「朝日湯」という銭湯としての形は残らなくても、あるいは名前が残らなくても
きっと血はつながって、残っているのかもしれない。
笑顔で帰っていく先で、あるいは笑顔で入ってくる前に「朝日湯」があったことのつながりを感じずにはいられない。
[ 東京都 ]
平日 夜
人出 無
「好きなんやなあ、と祖母は笑った」
誰にも会いたくない。でもサウナに入りたい。
なぜだか、どうしても今日だけは。
そんなぜいたくを叶えるため、仕事終わりの僕は湯島で途中下車した。
途中、ふだんは飲まない梅酒を買った。ワンカップサイズの瓶の中で梅が揺れていた。
券売機でチケット購入、靴を脱ぐ前にチケットと靴の鍵を交換する。不思議な動線に思えるが、それもここだけでの景色だ。
誰にも出会わない。カプセルゾーンはしっかりと利用されているようだけど。
暗がりのサウナ。水シャワー。脱衣所での休憩。
寝転んでもいい。誰もいないんだから!
梅酒を買ってきていたのを思い出した。
3階の親戚の家にあるようなソファと机のある喫煙所で梅酒を飲むと、まるで実家みたいだ。
子どものころ、祖母が毎年梅酒を漬けていた。
祖父がおいしそうに飲んでいた。
僕はシワシワになる手前の梅をお酒の中から選抜して、よく盗み食いした。かじると、「カリッ」と鳴く音が好きだった。
当然ながら祖父によく注意された。当然だ。子どもだったし、なにより梅酒の味が変わってしまうから。
真夏の入道雲とセミの声を振り切って家に帰ってきた昼下がり。
祖父母は2階の部屋で涼んでいる。
そっと階段の下から梅酒の瓶を取り出し、梅をつまんで、噛んだ。「カリッ」と音がした。
階段の中腹に腰掛けながら「好きなんやなあ」と祖母は笑った。
僕は湯島で梅酒を飲み終えた。瓶の中の梅をかじる。
あの音は聞こえなかった。
歩いた距離 4km
[ 神奈川県 ]
平日 昼
人出 少
「またこの季節がはじまる」
茅ヶ崎駅から徒歩数分。
トゥクトゥクが出迎えてくれる景色の先にはプールの水面がきらめいていた。
サウナ室は天井が低く設計されているため、ロウリュするとすぐにあたたかな熱が包んでくれる。
大きく取られた窓の向こうにはプールがまた、きらめいている。
水着を着たカップルがたゆたっていた。
女の子を後ろからハグし、プールを散歩していた。女の子の脚はまるで水草のように揺れていた。
僕は火照ったラドルを手にし、そっとロウリュする。跳ねる水。立ちのぼる蒸気。流れ落ちる汗。窓の向こうから聞こえる笑い声。
また、この季節がはじまる。
奪われないもののひとつだ。
歩いた距離 1km
[ 東京都 ]
平日 夜
人出 少
「今年の夏は暑くなりそうだ」
7月にサウナ室の工事があるかもしれないということだ。オートロウリュまで備えるという。
フロントのおじ様に伺うと「詳細は未定」とのことだが
着工されるならば、本当に楽しみである。
山手線最寄り駅から1分未満。24時間営業。持ち込み可能。泊まれる。90分1,000円。アメニティ豊富。
上記レベルでさらに「ロウリュ」のある施設をなかなかに思いつけない。
今年の夏は暑くなりそうだ。
[ 東京都 ]
平日 夜
人出 無
「ドシー湯島」
水風呂はない。誰もいない。けれど孤独のサウナ室がある。
フロントの方を除けば誰とも出会わない。
友人と来ていなかったら、世界が終わってしまったのではないかという錯覚すら覚えただろう。
他人のぬくもりを奪われつつある世界ではあるけれど
それでも孤独であることのあたたかさを感じさせてもらえる孤高のサウナが湯島にはあった。
先人がしていたのであろうロウリュによる湿気を受け止めながら
ドシー恵比寿ならぬ、ドシー湯島だな
だなんて下らないことを考えていると千代田線の電車の音が遠くで響いていた。
歩いた距離 2km