サウナの「ハレ」と「ケ」
サウナの楽しみ方にはいろいろな種類があると思う。
僕がサウナに通い出したのは数年前で、厳密には銭湯通いが先だった。
当時は「いかに生活コストを下げるか」という実験をしていた時期だった。住んでいたのは風呂なし・シャワー共用のアパートで、だから銭湯に通い出したのはいわば「入浴をする」という実利的な理由からだった。一人暮らしを始めた京都市内は、廃業が続いているとはいえ街中の至るところに銭湯があり、徒歩圏内にある数カ所の銭湯を日によって行き先を変えたりしながら利用していた。
サウナに関してはもともと苦手なほうだった。よくある「おじさんたちの汗だく我慢大会」というイメージが強くてずっとスルーしていたのだけど、書籍『サ道』をきっかけに利用するようになった。おなじみの「サウナ・水風呂・外気浴(休憩)」というノウハウを知り、様式というのは重要なのだな・・・と実感した。あれから何度か引っ越しをして住環境は変わったけれど、今でも回数券を買って週に数回、徒歩か自転車で行ける範囲の銭湯サウナに通っている。
日常(「ケ」)としてのサウナ
日常的に通う銭湯サウナには安心感がある。
特定の銭湯に通っていると、まず番台のご主人や女将さんと顔を合わせるようになる。休日に一日中誰とも喋らなかったりすると、入り口で発する「こんばんは~」がその日の第一声になったりする。僕は飲食店とかでお店の人にフランクに話しかけられるほうではなく、いわゆる「常連」の仲間入りをした経験がほとんどない。けれど、以前住んでいたエリアの銭湯の女将さんはどうやら僕を覚えてくれていたようで、ふとしたきっかけで会話するようになり、今でもたまに行くと「お兄さん来てくれはったんやね~」と声をかけてもらえて嬉しい。
あとはだんだん常連さんの顔ぶれがわかってくる。少し強面でがっちりした体格のおっちゃん、小柄で短髪で渋めのおじさま、いつもさらっと身体を洗って出て行く細身の若いお兄ちゃん・・・。僕が行くといつもいるので、おそらく毎日に近いペースで来ているのだと思う。
その人たちの目的があくまで「風呂に入ること」であることに、どことなく安心感がある。僕は趣味のコミュニティなどに顔を出すと、自分より趣味歴が長くて情報量をたくさん持っているような人にどうしても引け目を感じてしまうことが時折あるのだけど、この常連さんたちはあくまで「風呂に入りに」来ている。だから自分が何を知っていて、何を持っていて、どういう属性の人間かということがまったく不問になるような気がするのだ。共有しているのは「生活」をしに来ているという一点だけなのだけど、だからこそ同じ空間にいられるというのがいい。
こういうサウナの楽しみ方は、いわゆる「ハレ」と「ケ」でいえば「ケ」にあたるだろうと思う。「ハレ」と「ケ」については、専門的にはいろいろな見解があるのだと思うけれど、とりあえずは「非日常」と「日常」くらいの意味合いで捉えたらいいんじゃないかと思っている。ちなみにWikipedia先生は以下のように言っている。
「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。(Wikipediaより引用)
非日常(「ハレ」)としてのサウナ
一方で、「ハレ」としての楽しみ方も、それはそれで好きだ。例えば、
京都の錦湯で開かれた落語会に参加して生の月亭方正を目撃したり、
Perfumeの全国ツアーの遠征先をしきじがあることを理由に静岡に決めたり、
サウナフェスに当選して東京発のバスツアーで長野まで行ったり、
その翌日に笹塚のマルシンスパで荒川良々を真似してチャーシューとオロポを注文したり、
飲み会の直前に大阪のニュージャパンに寄ってリニューアル後のサウナ室の香りを楽しんだり、
祇園のルーマプラザで屋上の外気浴を楽しんだあとに進撃の巨人を一気読みしたり、
理髪店のサウナー店主とサウナ談義に花を咲かせたり、
大きな失敗をして凹んだ気持ちを紛らわすため不意に徳島まで高速バスに乗って、現地に着いてから「サウナイキタイ」で検索してスーパー銭湯に行ったり、
こういう楽しみ方ができるのも、サウナのいいところだと思う。どちらかというと、趣味や遊びとして楽しむ側面が強い。
「ハレ」と「ケ」の両方を楽しみたい
こういうことを書いていて、去年刊行された『公衆サウナの国フィンランド 街と人をあたためる、古くて新しいサードプレイス』(こばやしあやな著)を思い出した。フィンランドサウナの事例を紹介しつつ、「人の居場所」「街の文化」の視点から、日本の銭湯文化との共通点や相違点に触れられている。
ちょうど一年前、この本の刊行記念トークイベントが京都で開かれた。ゲストは大阪にあるゲストハウス併設の「昭和湯」森川真嗣さん、京都の「サウナの梅湯」を皮切りに今や4店舗を経営する湊三次郎さん。全国的に減少の一途を辿る銭湯の現状や、継続的なイベントの実施などで集客が回復した一方で「ケ」の側面が損なわれつつあるのではないか…といった葛藤などが語られていて、とても興味深かった。
少し気分を変えたいとき、なんとなく人と顔を合わせたいとき、心身の疲れを癒したいとき、思い立ったらすぐにアクセスできて、かつ高額なお金がかからない場所があるというのはとても貴重だという気がする。銭湯サウナは本当に一件でも多く残ってほしい。今後どこに引っ越すとしても、銭湯サウナの近くにあるところに住みたいなと思う。
このあいだ、大学時代の友人と話した時に「サウナブームは今後も続くかな?」と聞かれた。その時はうまく答えられなくて「ん~ブームで終わらなかったらいいな・・・」などとお茶を濁したのだけど、日常に地続きなものとして楽しむ人が増えたら嬉しいな、と思う。
最後に、サウナとは全く関係ないけれど、大阪のトラックメイカー・鍵盤ハーモニカプレイヤーに「ゆnovation」という人がいる。鍵盤ハーモニカというと、どうしても「小学生の楽器」というイメージがあるけれど、僕はこの人の曲を聴いてその印象がガラッと変わったのでぜひ聴いてみてほしい。それはいいとして、ゆnovationの『ある程度ある』という曲に、こんな一節がある。
特別に重点を置かず、ほどほどに組み合わす
上にのぼるよりできるだけ長く続けるゆnovation『ある程度ある』
特別な「ハレ」の趣味や遊びとしてたまに楽しみつつ、ほどほどな「ケ」の営みとして、今後も銭湯サウナに通い続けたいと思う。あと「ハレ」と「ケ」の究極のいいとこ取りをする試みとして、死ぬまでに一度はフィンランドに行ってみたい。
とてもいい記事でした。「ある程度ある」聴いてみます。
👍
ほどほどなケの営みに日々の救いを実感します。
地元銭湯の廃業やサウナブームを見ていて非常に共感しました