水風呂で考える黄泉の国のこと

サウナイキタイ アドベントカレンダー 10日目の記事です。

水風呂とイルカとジャックマイヨールと黄泉の国のことについて書きます。

サウナ室で身体を熱します。心拍数が上昇し、体幹、次いで四肢に汗が吹き出します。雑念に一つずつ蓋をして、熱い、以外のことを考えられなくなったら、サウナ室から出ます。なるべく熱いシャワーを浴びて汗を流し、ふらふらと水風呂へ向かいます。

うなじまで一気に水風呂に浸かると、冷たい、という感覚の次に、水の圧を全身に感じます。目をつぶると、だんだんと五感が研ぎ澄まされ、わずかな水流、微かな塩素臭、流水音、吐く息が冷える感覚、瞼の裏に移ろう極彩色の文様、すべてが過剰なほど際立って押し寄せてきます。

動悸が収まってくる頃、私はきまってイルカのことを考え始めます。イルカのような潜水哺乳動物は、潜るときに徐脈といって、脈がゆっくりになるそうです。これは、全身の酸素消費量を抑えて、脳を保護するためという説があります。深く潜るイルカに思いを馳せます。遠い水面、暗く冷たい深海をイメージします。自分の脈がゆっくりとなるにつれ、自分の中にも脳保護物質が分泌されているのを感じます。

深く潜るというと、昔テレビで見たフランスのフリーダイバー、ジャックマイヨールのことを思い出します。この記事を書くにあたって少し調べたところ、彼も潜るときに徐脈、それも毎分26回という著しい徐脈になっていたということを知りました。人生の最後は自ら命を絶ったということも。同じ番組だったかどうかは忘れましたが、日本人の女性ダイバーが素潜りの素晴らしさについて熱っぽく語っていたことも思い出します。

なぜ潜るのか。私はカナヅチで、スキューバ体験でも過呼吸を起こして周りに迷惑をかけた人間なので、想像の域を超えないのですが、そこには、手を伸ばせば届くような死に臨んだ者にしか知りえない、深い悦楽があるのではないかと思います。それを知ってしまったら、地上での生活が苦痛に満ちているように感じてしまうほどの快楽。

「サウナトランス」と呼ばれる現象が毎回訪れるわけではないのですが、私の場合水風呂で普段より脈が遅くなった時に起こりやすいです。サウナにハマって割と初期のころから、サウナトランスを求めて、私は水風呂で息こらえをするようになりました。

大きく息を吸い、横隔膜を下げるイメージ、胸腔内圧を上げるイメージでしばらく息を止めると、だんだんと脈がゆっくりとなっていきます。バルサルバ法と呼ばれる方法だと思います。迷走神経を賦活化させることで、水面がゆがみ、天井が回り始めるあの感覚が得られる時が、ときどき、あります(決して人にお勧めする方法ではありません)。

暗い話になりますが、水風呂の深いところで、私は亡き母と交信することがあります。母は、一人娘の私が大学生になり家を出てから、スイミングスクールに通うことにハマりました。週2回は泳ぎに行っていたと思います。そのことを父はあまりよく思っていなかったのですが、母は、「泳ぐと、頭がスッキリするのよ」と笑っていました。

今思うと、母にとっての水泳は、私にとってのサウナだったのではないかと思います。亡くなったのも、水の中でした。プールで深く潜った際に、脳動脈瘤が破裂して、母は帰らぬ人となりました。スイミングスクールの方々には本当にご迷惑をおかけし、水から引き上げてくださったことに感謝するばかりなのですが、大好きなプールの中で逝くのは、母が望んだ死に方だったのでは、という思いが、私の悲しみを少し癒してくれます。

以前、NHKで立花隆氏の思索の番組として「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」という番組をやっていました。調べたらもう6年も前なのですが、母の死を受け入れられずに過ごしていた私にとって救いとなる内容でした。その番組によると、死の淵から生還した人々は口々に、それは強烈な快楽を伴う体験だった、と語っていました。

水風呂からゆっくりとあがり、テルマーベッドに身体を横たえてぐるぐる回る天井を眺めながら、そんな快楽に包まれながら母が逝ったのなら良いな、と思います。自分が幼いころの母との思い出を急に思い出したりします。私にとって、水風呂は小さな臨死体験、快楽体験で、テルマーベッドは明るく穏やかな墓参りにもなります。

以上、水風呂で考える黄泉の国のことについて書かせていただきました。水風呂はどこかであの世とつながっている。