鷹の湯
銭湯 - 北海道 札幌市
銭湯 - 北海道 札幌市
偏愛とは何か。
偏った愛はすべて『偏愛』と呼ぶのだろうか。
「私は女が好きだ」
これは博愛?
「私はあなたが好きだ」
これは偏愛?
偏った愛のほうがまともに見えるのだが、それは私の右目が内斜視だからだろうか。私には偏った愛こそが、本当の愛し方に思えてならない。
だから、恥ずかしげもなく言おう。
「銭湯が好きだ。中でも鷹の湯が好きだ。それも、かなり」
ーーーーーーー
「おすすめの銭湯はどこですか?」
そう尋ねられて、「鷹の湯ですね」と答えたことは今まで1度もない。これからも答えることはない。
熱い湯はあまりに熱すぎるし、ぬるい湯も熱い。中間というものがない。
音楽も一切流れず、設備は古い。全カランに設置されているホースシャワーをほめても、結局はどこの家にもあるアイテムでしかない。鷹の湯にはもろ手を挙げてすすめられるような要素があまりにも少ない。
「わかるやつにだけわかればいい」
そんな傲慢さを鷹の湯から感じる人がいてもおかしくない。そう思う。
かつて、サウナ室で一緒になった大学生らしき若者が同じ値段の立派なスーパー銭湯と比べていかに鷹の湯がみすぼらしい施設なのかを一緒に来ていた友人に熱弁していた。その気持ちはわかる。
でも、たぶんそれは間違っている。
鷹の湯は、鷹の湯なりのあゆみで前に進み続けているのだから。
たとえば、今年の春。札幌の銭湯で一斉にサウナ室が使用停止となった時期、鷹の湯はサウナ室の木を新調した。さらに、サウナ室の照明を暗いLEDに変え、温度設定をかつてよりずいぶん熱くした。
サウナ需要を敏感に感じ取り、ニーズに応えようとしていた。
それでも、音楽もテレビもない鷹の湯の狭いサウナ室は武骨で、誰もが気に入るようにはできていない。熱すぎるお風呂の温度設定と同じ。
おもてなしの心はそこに確かにあるのに、それがわかりやすく表現できない不器用さ。
それが「鷹の湯」だ。
だから、誰かにおすすめしたとしても、鷹の湯の魅力がわかってもらえるとは到底思えない。もっと言うならば、銭湯の魅力を最初に伝えるにしては鷹の湯のそれはハードルが高すぎる。
そこがいとおしい。
『俺だけがわかる。俺だけがわかっていればいい』
私にとって鷹の湯はそう思わせてくれる場所なのだ。
だから、無理をしてまで行かなくてもいいと思う。
いいかい、行くなよ?
絶対に行くなよ?
絶対だぞ?
絶対行くなよ?
絶対だぞ?
かっこいい。
女湯にはヌシ子が居るみたいですが、一度お邪魔してみますね。
んもー、久々に行く気になったです。。
(笑)
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