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春爛漫、鼻のムズムズも幾分かマシになってきた4月のアタマにテントサウナに誘われた。
とあるお坊さんの車で橋本駅より輸送される。
車内はオジサンですし詰めだ。
後部座席のタイトな3人に対して最年少のオジサンが助手席に悠々と座っていたが、そんなことはどうでもいい。
誰も気にしない。
ここは年功序列など存在しない世界、サウナ愛好家の世界。
車内の会話の多くはとりとめの無いものだったが、ことサウナの話題になると多少ボルテージは上がってしまう。
あそこの館内着はどうだとか、休憩室がどうだとか、あそこのサウナ室の角が熱いだとか。
これはサウナ好きに限った話ではないが、オジサンとは会話の中で頭の中で空間を共有するのが楽しくてしょうがない生き物なのだ。
女性は感情を共有する生き物(主観です)なのに対してオジサンは空間を共有する。
皆さんも男性同士が、建物の場所、道順、そこで何が見えるとかの話で盛り上がっているのを見たことがあると思う。
オジサンの多くは自分がそれをしているはずである。
サウナ愛好家はそれをサウナで行っている。
そこに遊びがあり、人生を使って追い求める何かがある。
そして今日集まったサウナ愛好家は、そんな遊びをいろいろ持っている。
いろいろ持っている遊びの中の「サウナ」、それを共通項に集った「オジサン」たちだ。
大人は遊べなきゃいけない、遊んでいなきゃいけない、遊べなきゃ大人じゃない。
これは私の持論ではあるのだが、
恍惚の笑みを浮かべながらまだ大分冷たい春の川に飛び込むオジサンたちを眺めながらやはり間違っていないと改めて思う次第である。
さらには
スーパーコンパクトな焚火台を持ってきて最終的にガスバーナーの力を借りて油揚げを焼く男。
ランチパックを食パンで挟んでホットサンドメーカーで焼く男。
こんなことを人里離れた河原でそれなりの荷物を持ってきて何をやっているのか。
非合理。
しかし非合理の中に合理性を創りだすことこそが遊びなのではないか。
数多ある遊びの中でもある意味究極なものかもしれない「テントサウナ」。
まだまだ奥がある。
真髄を知るのはもっと先かもしれない。
真髄は無いのかもしれない。
真髄が見つからないからこそ究極の遊びなのかもしれない。